日本思想


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日本思想(にほんしそう、英: Japanese philosophy)は、日本の哲学・思想のこと。日本哲学とも言う[注 1]。太古にはアニミズム・シャーマニズムとしての神道があったが、仏教、儒教、西洋思想の伝来[注 2]によって習合・混合し、日本特有の思想風土が出来上がっていった。

概要

日本思想には、大きく二つの特質が見られる。一つは、日本の思想史が外来思想――仏教・儒教・西洋近代思想など――を積極的に受容し、独自に展開してきた歴史をもつことである。もう一つは、前近代の思想や文化が現代にまで形を変えて存続している点である。これらは単なる伝承ではなく、新旧が融合した重層的形態として受け継がれている[2]。例えば、古来の神社で執り行われる神前結婚式は、明治期以降にキリスト教式の婚礼様式を参考に形成されたものであり、伝統の再構成の一例である。このような文化の「雑種性」(加藤周一)や「重層性」(和辻哲郎)は、日本文化に固有の特性とされる[3]。

思想史を概観すると、日本人は古くから自然の中に神々を感じ取る神道的感性を持ち、飛鳥・奈良時代以降は仏教を受容し、神仏習合という独自の宗教観を形成した。平安時代には貴族文化と仏教思想が融合し、鎌倉時代には浄土宗・日蓮宗・禅宗などの新仏教が台頭し、庶民や武士に広がった。江戸時代には、朱子学・陽明学・蘭学など多様な学問が受容され、日本固有の思想を再評価する国学運動も興隆した。これらは明治維新の思想的基盤となった。

明治以降は、西洋近代思想の導入が本格化し、西田幾多郎に代表される独創的な哲学や倫理学が形成された。これらの思想は、単なる輸入ではなく、日本的伝統との対話を通じて生成されたものである。日本の思想家たちは「自己とは何か」「いかに生きるべきか」といった根本的な問いに真摯に取り組み、内在する伝統と対話しつつ、外来思想と批判的に向き合った。その姿勢こそが、日本思想の独自性を支えているとされる[4]。

日本思想史を学ぶ意義は、こうした思想家たちの真摯な問いと向き合う姿勢にある。彼らの思索は現代に生きる私たちにとっても、自己と世界を見つめ直す手がかりとなるものであるとされる[5]。


各時代の思想

古代・中世
→「神道」も参照

日本思想の最初期は、神話を中心とした宗教的世界観に支えられていた[9]この段階では、論理的な思索ではなく、神々の物語を通じて世界の成り立ちや人間の在り方が語られた。『古事記』・『日本書紀』に記された神話は、天地開闢、国土生成、神々の系譜、天孫降臨などを含む体系的叙述をもつ[10]。自然現象は神格化され、神々は人格と同時に自然そのものを象徴している。

イザナギ・イザナミによる国生みや死と再生の神話は、死生観と穢れ・浄化の思想の起源とされる。天照大神は太陽神として、皇統の神聖性の根拠とされ、政治思想にも影響を及ぼした[3]。

神話における秩序と混沌の反復は、日本における調和と再生の思想的な原型をなす。神と人間、自然との連続性が強調され、世界は断絶よりも関係によって成り立っていると理解された[11]。言霊思想や祭祀を通じた言語と行為の霊的効果への信仰も特徴である[12]。このような神話的世界観は、後の仏教、儒教、神道思想の受容と融合の基盤となった[13]。


仏教公伝以降、仏教が日本思想の本流を占めた。聖徳太子によって政治面でも導入された仏教文化は奈良時代に「国家鎮護」の思想として完成された。平安時代が始まると、「国家鎮護の思想」の代わりに空海と最澄が広めた密教が一般的になった。平安貴族文化の衰退期には、悲観主義的な「末法思想」によって、この世界での命をなげうって未来世の救済を強く称揚する浄土思想が広がった。武士が政権を握る鎌倉時代が始まると、新しく起こってきた社会階級(武士)のための「新」仏教が現れた。

日本への仏教の到来と初期の影響

古代の日本では、仏教の到来は国家の建設や中央集権化と密接に関連していた。蘇我氏は排仏派の物部氏を戦争で打ち倒し、推古天皇の摂政である聖徳太子は蘇我氏と協力しながら体系的な法典と仏教に基づいた国家統治の計画を起草した。聖徳太子は仏教に深い理解を示し[注 4]、仏教によって国の政治を安定させようとした。仏教の力で国の平和と安全を得ようとする思想は「国家鎮護」思想と呼ばれる。

奈良時代、特に聖武天皇の時代に、国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、東大寺と大仏が奈良に作られた。唐の鑑真が東大寺の戒壇をもたらした時期に、国家による仏教政策が頂点に達した。

奈良仏教が「国家鎮護」思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益も重視した。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海は中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると信じた。

平安後期には貴族文化衰退とともに現世を信じる可能性は否定され、死後に仏教の楽園に転生することを求めることが流行した。「後世にこの世界で仏教が廃れる」という末法思想の考えとともに、すべてを救う阿弥陀如来の力によって楽園へ転生し連れて行ってもらうという「浄土」思想が広がった。空也が諸国行脚して阿弥陀如来への帰依を説き、源信が『往生要集』を書いた。

鎌倉仏教
→「鎌倉仏教」も参照

浄土宗を開いた法然は、他の禁欲的な実践を完全に廃し、阿弥陀如来の力による救済を説いた。彼は弟子に「阿弥陀如来を信仰し熱心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できる」と主張した(専修念仏)。彼の弟子の親鸞は新たに浄土系の宗派を開き、法然の教えを受け継いで、阿弥陀如来の力に完全に頼ることを説いた(他力本願)。そして「阿弥陀如来による往生の対象者は俗世の自ら自分の罪を自覚したがっている悪人である」と主張した(悪人正機)。時宗を開いた一遍は「踊念仏」を始めた。

浄土信仰とは対照的に、禅宗は坐禅による自己覚醒を試みた。栄西は中国の臨済宗を学んだ。彼は弟子に「公案」(難題)を与えてそれを解かせ、それによって弟子たちは自己啓蒙した。臨済禅は鎌倉時代の上流武士階級から広い支持を集めた。道元は中国の曹洞宗を学んだ。栄西に対して、彼は弟子に「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)による覚醒を説いた。曹洞禅は地方の武士から支持を得た。

日蓮ははじめ天台の思想の影響を受けていたが、やがてその思想を展開して独特の思想へとたどりついた。当時の日本はモンゴル帝国の軍勢が迫る不安定な状態で、そうした政治の状況を目の当たりにし、その原因を天台教学で最高位に置かれていた法華経以外の信仰が広まっているためと考え、それを『立正安国論』に記した。

近世
→「江戸時代」も参照

日本の古代・中世思想は仏教と強く結びついていたが、近世では豊臣秀吉の朝鮮出兵の際連れ帰られた姜が朱子学を日本に広め、儒教(宋学)が盛んになった。江戸幕府がこれを後押しし、林家の朱子学は江戸幕府の老中松平定信の時代に公認され、昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁ずる寛政異学の禁が制定された。儒教は江戸中期以降に水戸学や国学に展開し、後の戦前日本の基本思想となる。

末期には蘭学として西洋学問が輸入され始めた。

儒教

元昌平坂聖堂(のちの湯島聖堂での博覧会(昇斎一景・1872年)
→「日本の儒教」、「朱子学」、および「陽明学」も参照

江戸時代には、儒教が盛んになった。中国の朱子学(宋明理学)が主流になり、その批判から古学派や国学など新しい思想が現れた。

朱子学は家族的な封建制の社会的地位の秩序を尊重した。中世以来五山文学の中で学ばれてきた朱子学は、藤原惺窩や弟子林羅山により復興し、江戸幕府の将軍により重宝された。孔子を祀る湯島聖堂が建てられた。寛政異学の禁により朱子学は権威を増した。さらに、朱子学の思想は江戸幕府末期に尊王攘夷を唱える社会的運動に大きな影響を与えた[要出典]。

朱子学とは対照的に、実践的な倫理を尊重する陽明学は江戸幕府によって一貫して監視・抑圧された、というのは江戸幕府の下での社会・政治的状態を批判していたからである。

古学派は孔子や孟子の原典の本来の意図を考慮に入れた。山鹿素行は儒教的倫理学に基づいた武士道を打ち立て、武士を最も高貴な階級だと強く信じた。伊藤仁斎は儒教の「仁」に注意を払い、「仁」を他の人に対する愛、そして純粋な思考としての真理であるとしてこれを尊重した。また、古代中国の古典に対する重要な研究によって、荻生徂徠は本来の儒教の精髄は世界を支配し民草を守ることであると主張した。

国学
→「国学」も参照

江戸時代中期に、仏教や儒教のような外国の思想に対抗して、国学と呼ばれる日本の古代文学や思想、文化の研究が盛んになった。

江戸時代中期に、国学は背景としてナショナリズムおよび、大坂懐徳堂などの実証的な儒学の影響を受けながら広まった。国学は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』を含む古代日本の思想・文化を実証的に研究した。国学は仏教や儒教と異なる日本の本来の道徳文化を発掘することを狙いとしていた。賀茂真淵は『万葉集』の研究に取り組み、男性らしく寛容な様式を「益荒男ぶり」と呼び、蔵書を純粋かつ簡潔に評価した。古事記の研究を通じて、本居宣長は、日本文学の本質は、物事に接した時に自然に起こってくる感情である「もののあはれ」から生まれてくると主張した。彼は中国の(儒教・仏教の)「からごころ」に代えて「やまとごころ」を尊重した。彼によれば、国学は神道という日本の古い流儀を追究するべきであるという。国学の研究を通じて、平田篤胤は国粋的な復古神道、天皇への服従、儒教及び仏教の廃止を唱えた。これが江戸幕府の崩壊と明治維新の駆動力となった。