わび・さび
Wiki: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3
わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心、日本の美意識。美学の領域では、狭義に用いられて「美的性格」を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて「理想概念」とみる場合とに大別されることもあるが[1]、一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする[2]。本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い[3]。茶の湯の寂は、静寂よりも広く、仏典では、死、涅槃を指し、貧困、単純化、孤絶に近く、さび(寂)はわびと同意語となる[4]。人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている[5]。
…本来、侘とは厭う(いとう)べき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、いとうべき不十分なあり方に美が見出されるようになり、不足の美を表現する新しい美意識へと変化していった。室町時代後期には茶の湯と結び付いて侘の理解は急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉が侘の美を徹底した[6]というのが従来の説である。しかし、歴史に記載されてこなかった庶民、特に百姓の美意識の中にこそ侘が見出されるとする説が発表されている[2]。
…一般に「わび茶」の創始者と言われる室町時代の村田珠光(1422−1502)は、当時の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、より粗末なありふれた道具を用いる方向に茶の湯をかえていった。珠光は浄土宗の僧侶であり、臨済宗の僧一休宗純(1394-1481)の下に参禅し禅の思想に触れた。そして、禅と同様、「茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは、我慢(慢心)我執の心を持つことである」[10](倉澤行洋『珠光―茶道形成期の精神』p.43「心の文」より 淡交社 2002)として、禅と茶の一致を説いた。いわゆる茶禅一味である。その方向を、武野紹おう(1502−1555)や千利休に代表される堺の町衆が深化させたのである。彼らが侘について言及したものが残っていないため、侘に関しては、彼らが好んだものから探るより他はない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、「床壁の張付を取り去って土壁とし、木格子を竹の格子とし、障子の腰板も取り去り、床のかまちが真の漆塗りであったのを木目の見える程度の薄塗りにするとか、またはまったく漆を塗らずに白木のままにした。」[11](『現代語訳 南方録』「棚 一茶室の発達」p.225-226熊倉功夫 中央公論社 2009)張付けだった壁は民家に倣って土壁」『南方録』)になり藁すさを見せた。茶室の広さは「4畳半から3畳半、2畳半に」[12]、6尺の床の間は5尺、4尺へと小さくなり、塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は日常品である備前焼や信楽焼きを好み、日常雑器の中に新たな美を見つけて茶の湯に取り込もうとした。このような態度は、後に柳宗悦(1889−1961)等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがある。[13] 一方、 利休は自然で無駄のない楽茶碗を新たに創出させた。
侘は茶の湯の中で理論化されていったが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。江戸時代には多くの茶書が著され、それらによって、茶道の根本美意識として侘が位置付けられるようになった。武野紹?は侘を「正直に慎み深くおごらぬ様」と規定している。[14](桑田忠親『日本茶道史』p.129-130「紹?侘びの文」より 河原書店、1975年) 一時千利休の秘伝書と目された『南方録』では、侘が「清浄無垢の仏世界」[11](前出『現代語訳 南方録』「滅後 二茶の湯の将来」p.650)と示されるまでになる。『南方録』は全篇で「わび茶の心」[11](同書「はじめに」p.1)が語り続けられているが、その冒頭には、「小座敷の茶の湯は第一に仏教の教えをもって修行し悟りをひらくものである。…こういうことは全て釈迦や祖師のやってきた修行であり、そのあとをわれわれが学ぶことである」[11](同書「覚書 一わび茶の精神」p.15)との利休の言葉が記される。
岡倉覚三(天心)(1863−1913)の著書『The Book of Tea(茶の本)』の中では「茶道の根本は‘不完全なもの’を敬う心にあり」[15]と記されている。この“imperfect(不完全なもの)”という表現が侘をよく表していると言える。英語で書かれた同書を通じて侘は世界へと広められ、その結果、日本を代表する美意識として確立されていった。
大正・昭和時代には茶道具が美術作品として評価されるようになり、それに伴って、侘という表現がその造形美を表す言葉として普及した。柳宗悦(1889−1961)や久松真一(1889−1980)などは高麗茶碗などの美を誉める際に侘という言葉をたびたび用いている。[16]