漢民族と中華民族



■本当は分裂は避けられない!?中国の歴史 / 八幡和郎 /SB新書                              

P3〜  はじめに――中国人も日本人も知らない本当の中国史
                     
・日本人は中国のことをよく知っていると思っていますが、一般に流布している「中国史」の本は、中華思想に基づく中国人のゆがんだ歴史観を無批判に受け入れたり、戦争の責任をいつまでも引きずって反省だけが目的になり、日本がプラスに評価されるべき事実や認識は全部なかったことにするような自虐的なものがたいへん多いのです。たとえば、昔の日中関係を説明するときなどに登場する「冊封関係」などという考え方は、中国や韓国の歴史本を見てもあまりお目にかかれない日本独特のもので、まさに「ガラパゴス史観」ともいうべきものなのです。逆に保守系の人が書いた著作は、戦前に盛んだった侮蔑史観の復活を思わせるような、中国の過去の栄光を無視したり、近年のめざましい発展ぶりも正しく評価していないものが多いのです。改革開放が始まって以来、多くの保守系の論客が「中国はすぐにダメになる」とずっといい続けてきましたが、当たったためしはありません。


P28〜 漢民族は漢字だけを絆にした民族

・中国語を話す民族が広範囲に拡大し、また、分裂させなかったのは漢字の特質によります。漢字は、一つひとつに意味がある表意文字なので、文字面を見ただけで内容が伝わりやすく、商業文字として有用です。また、同じ理由で行政命令などを伝えるのにも適しています。そこで、読み方(発音)など話し言葉としての共通化が進まないままで、書き言葉として中国語を使う民族はどんどん拡大しました。…筆談が漢字文化圏で広く行なわれていたのです。…中国語の発音は、時代とともに大きく変わっていきました。…日本語の漢字の読み方にはその変遷の影響が残っています。漢帝国時代のものが南北朝時代の南朝に引き継がれて使われていた呉音、唐時代の長安の発音である漢音、禅宗の僧侶などを通じて宋代以降の発音が鎌倉時代以降に輸入された唐音が混在しているのです。たとえば、「明」という漢字の場合、「めい」と読むのが漢音、「みょう」が呉音、「みん」が唐音です。

P35〜  匈奴など消えてしまった民族も珍しくない

・ある民族が消えてしまうということは、その固有の言語を話す集団が現存しなくなったということです。現在でも、たとえば、満州族などいまや風前の灯火となっています。日本では、古くは縄文人と弥生人が融合して現代につながる日本人が形成され、そこへ百済や任那などからの帰化人がやってきました。しばらくは彼らも一つの「民族」をなしていたのでしょうが、だんだん、日本人に吸収されていったわけですが、これと同じ現象が現代中国でも進行しているということです。いずれにせよ、現在の漢民族は、黄河文明を担った「黄炎(三皇五帝のうちの黄帝、炎帝)の子孫」、「華夏族(漢の時代以前に中原に暮らしていた漢民族のルーツ)」の時代よりも、はるかに広い集団であることは間違いありません。

P35〜  どうして漢民族は13憶人もいるのか

・中国の人口は約14億人ですが、そのうち94%が漢民族です。また、漢民族は海外にも一億人ほどいて、世界の人口のうち約20%も占めます。なぜ漢民族ばかりこんなに多くなったのでしょうか。それは、漢民族という「民族」が血縁関係による人種を意味しないからです。スターリンの遺産はだいぶ少なくなりましたが、「言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人間の強固な共同体」という定義は生き残っている珍しいもので、中国でもこれを採用しています。この定義だと血は繋がっていなくてもいいわけです。 

P37〜  満州人から漢民族を解放するのが辛亥革命だったはずが

・中国が多民族国家となった淵源は、満州(女真)人のホンタイジ(大宗。1592〜1643)が、漢民族を征服して満、蒙、漢三民族を束ねる大清帝国を1636年に樹立したことに始まります。その大清帝国の領土が、辛亥革命後の近代中国に引き継がれて今にいたるわけですが、…大清帝国は、満、蒙が中心となった少数民族主導の多民族国家に、漢民族が吸収されて成立したものだったわけで、満州人だけでなくモンゴル人も支配階級として有利な扱いを受けていました。…中国の革命運動は漢民族のナショナリズムと反満州族感情から出たものでした。…そういう経緯からすれば、新しい中国は明と同じように、万里の長城の内側に限定された領土となり、漢民族による単一民族国家に近いものになるべきでした。その場合、満州人は東北の故郷に帰ればいいわけですし、モンゴル、チベット、ウイグルなどはそれぞれ独立すればよかったのです。…辛亥革命とは、大清帝国を倒して中華民国を建国した革命のことです。この蜂起は全国に拡大し、翌年の元旦(1912年)には南京で中華民国臨時政府が、アメリカから帰国した孫文を臨時大総統として成立しました。ただし、この政府は全国を統一するだけの力はありませんでした。これを受けて、北京では、…袁世凱(1859〜1916)が、大清帝国の内閣総理大臣に抜擢され体制の再建を急ぎました。…孫文は袁世凱に、幼児だった宣統帝溥儀の退位に協力すれば大総統職を譲ると持ちかけ、袁世凱は…退かせました。こうして1912年2月12日、宣統帝溥儀の退位と袁世凱の中華民国政府への権限移譲が行なわれて、袁世凱が3月10日に中華民国臨時大総統に就任し、諸外国の承認を得ました。つまり、中華民国としては初代の臨時大総統は孫文ですが、彼は列強の承認を得ていませんから、国際的に認められた中華民国の初代元首は袁世凱です。

P41〜  ラストエンペラーは皇帝を辞めた後も紫禁城にいた

・袁世凱は新しく首都とされた南京に移らず北京への遷都を宣言しました。…しかも、皇帝になることを前提に国号を中華帝国に改めましたが、…反発が強く、…失意のうちに病死しました。そして、その後継を巡って、軍閥割拠となり、政権はたらい回しされました。これを北洋政権といいます。孫文も革命政府を樹立しましたが、1925年に死去して、紆余曲折ののちに蒋介石が北伐に成功し、1928年に列国に承認されました。…このように北洋政府という過渡期的な政権があったことで、中華民国は1634年に満漢蒙連合体として成立した大清帝国の継承国家として領土や国民を引き継ぎ、また、多民族国家としての矛盾も同時に引き継ぐことになったのです。

P43〜  少数民族には自立を要求する権利がある

・満州、蒙古、新疆、チベットは、国際法的に合法的に中国の一部です。しかし、もともとは満州人たちが征服した土地ですし、全く違う文化をもった民族の集まりですから、独立したい、幅広い自治を認めて欲しいという希望がでるのは当然です。…中国は大清帝国の遺産を引き継ぐことによって13億人の民と世界第三位の面積の領土を持っているわけですが、多くの強力な少数民族を抱えるコストは非常に高いものであることも確かなのです。




Cf. <中華民族>Wiki

中華民族(ちゅうかみんぞく)という用語は、中国の国籍を持つ全ての文化的集団(エスニック・グループ)を統合した政治的共同体(ネーション)を表す概念である[1][2][3][4]。

現在の中国共産党などは漢族のほか、蒙古族、満洲族、チベット族やウイグル族などの少数民族も中華民族を構成する民族として含まれている[5]。例えば、中国への遠征中に亡くなった蒙古族のチンギス・ハーンは、中国共産党では「中華民族の英雄」と扱われている[6][7][8]。

中国共産党によって中華民族に属すると定められた人々が居住する地域を中国の一部であると解釈することにより、そのような人々や地域を武力で併合していく帝国主義であるとして問題視する見方もある[5]。

…「中華民族」という単語が初めて公式に出てくるのは、1900年11月、清の政治家伍廷芳の講演とされる。その後、清時代のジャーナリストの梁啓超などが使用するようになる。梁啓超の著作では、1905年に書かれた歴史上中国民族之観察では、満洲族やモンゴル族、チベット族は中華民族に含まれないとしているが、1922年の「中国歴史上民族之研究」では満洲族を中華民族に含むとしている。1988年、費孝通が発表した「中華民族多元一体構造」論では、中国に住む諸民族は、数千年の歴史を経て形成された一体性を有するとしている[16]。この「中華民族多元一体構造」は現在の中国の民族政策の基本路線を成すとされる[17]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E6%97%8F