石 平


■■<<なぜ論語は善なのに儒教は「悪」なのか―日本と中韓「道徳格差」の核心>>
     (石 平/PHP新書
 より )

※平易だが、深い内容をもった一冊。中国を発見すると同時に、日本を発見することができる。


■【中国人は儒教に「権力」を求め、日本人は「愛」を求めた。
著者が人生を通じて発見した真理――孔子の心は中国ではなく日本にあった。  (帯) 】

■内容紹介 …御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を果てに著者がたどり着いた答えは、なんと「論語は儒教ではない」というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。


■<序章私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」 より P31〜 

日本で見つかった本当の『論語』、そして「礼の心」

…ドアチャイムを押して「どうぞ」とのお返事があったので、玄関を押し開いて中に入った。玄関に入ったその瞬間、そこで目撃した光景はあまりにも衝撃的で、私はそのまま凍りついた。このお宅の初老の奥様がなんと、玄関口の床に正座して両手を床につけ、頭を深く下げて、私たちを迎えてくださったのである。

 あまりにも意外な光景に驚きながら、その瞬間、目頭が熱くなって涙がこぼれた。私が二十六歳(その当時)まで生きてきた中で、人にそれほどの礼をもって接せられ、人にそれほどの暖かさをもって迎えられたのは初めてのことだった。

…しかし、日本に来てからわずかひと月で、私は「礼」の満ちている社会の中で生きる実感を得て、「礼」が生活の一部となるとはどういうことかを知った。保証人の家を訪れたその日、私は人生で初めて、「礼」の端的な美しさと暖かさに接することができ、本当の「礼の心」に触れた気がした。「礼」とはそれほど温もりがあって、それほど人間性に満ちているものなのかと感銘を受けたのである。

デュルケームと「礼の用は和を貴しと為す」

…私の大学院の修士課程での専攻は社会学である。私の指導教官は、フランスの近代社会学者である、エミール・デュルケームの思想を研究テーマにしていた。
 
 ある日のゼミで、デュルケームの「社会儀礼論」がテーマとなった。その学説を簡単に説明すると、デュルケームは社会統合における儀礼の役割をとりわけ重視し、人びとが儀礼を通じて関係を結び、共に儀礼を行うことによって集団的所属意識を確認し、集団としての団結を固めていくものである、との説である。

 今まで、「儀礼」などは単なる形式にすぎず、あってもなくてもよいものだと考えていた自分にとって、デュルケームのこの「社会儀礼論」はかなり新鮮で、たいへん面白かった。

 そこで、ゼミと討論時間に、私は自分の意見を述べた後で、思わず次のような感想を付け加えた。
「さすがにフランスの社会学者ですね。深いところを見ていると思います」

 それを聞くと、指導教官は顔を私に向けて、口元に笑みを浮かべながら、こう言った。
「何を言っているのか君。そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」
意表をつかれて戸惑った私の顔を見ながら、先生は続けた。
「『礼の用は和を貴しと為す』という言葉、君は知らないのかね」

 先生が口にしたのは、何らかの古典の漢文であることは、すぐにわかったのだが、その原文がいったい何なのか、すぐには私の頭に浮かんでこなかった。

 すると先生はペンを取って、メモ用紙にさっと書き示した。
礼之用和為貴」という語句である。

 先生のペンが止まったその瞬間、私はわかった。
「『論語』の言葉ですね、先生」と答えた。

「そうだ。分かっているじゃないか。君は中国人だから。『論語』をもっと読みなさい。日本人の諸君も読んだ方がよい。ためになるぞ」と先生は満足気に頷き、その日の「『論語』講義」を締めくくったのである。