本居宣長


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本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者(文献学・言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、鈴屋[3]。荷田春満賀茂真淵平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる[4]。

業績

歌論・物語論

しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」[注 14]

宣長は『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を「自然に背く考えである」と非難し[注 15]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[注 16]。

『源氏物語』の研究は20歳の寛延2年(1749年)から『源氏物語覚書』を作るなど早くから関心を持っており、自宅で『源氏物語』の講義を始めて5年後の宝暦13年(1763年)に『紫文要領』の奥書を書いている[80]。『紫文要領』著述後も内容に補訂を重ねて寛政8年(1796年)に『源氏物語玉の小櫛』を完成させた[81]。

先人の手による注釈書の中では『河海抄』『花鳥余情』『湖月抄』を高く評価する[81]。他方で『紫家七論』のように、物語の作者が勧善懲悪のために作品を編んだとみて、『源氏物語』から好色を戒める教訓を引き出そうとする解釈に対しては批判を行っている[82]。古今伝授については東常縁による作出という説を唱えたが、同時に旧来尊ばれてきたことも認めて敬意を払っている[83]。

古道論・史論

宣長は儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し[注 17]、「神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだ」と主張した。そして、「日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきた」として、「日本には言挙げをしない真の道があった」と強調した。逆に儒教や仏教は「国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道である」と批判し[87]、天命論についても「易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為である」と批判した[87]。さらに、朱子学の理気二元論についても、「儒学者達が推測で作り上げた空論である」と批判し、「世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだ」と主張した上で、「世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬である」とした[87]。

宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、「時々の社会体制も全て神が司っているので、人は時々の社会体制に従うべきだ」とも主張している。「漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた、神により司られているため重んじるべきだ」とし[注 18]、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した[88]。そして、「道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道である」と主張した[89]。

また、宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と、その背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。