齋藤孝
■■<<日本人は何を考えてきたのか―日本の思想1300年を読み直す>>
(齋藤孝/祥伝社黄金文庫)
第一章 言葉と日本人
●漢字と大和言葉の不幸な結婚
P36〜
…本居宣長が『古事記』解読を志したきっかけは、「松阪の一夜」と称される賀茂真淵(1697〜1769)とのたった一夜の出会いでした。
伊勢松坂の旅籠に宿泊していた真淵のもとを宣長が訪ねたのは1763年、真淵はすでに60代後半、『万葉集』の研究で名を馳せた学者で、対する宣長は学問で身を立てることを志す青年でした。
本居宣長が、「わたしはかねがね『古事記』の研究をしてみたいと思っていたのですが、それについて何かご注意いただけることはございますか」と尋ねると、真淵は喜び、次のように言いました。戦前の小学校の国語教科書から引きます。
「それはよいところに気がつきました。私も実は我が国の古代精神を知りたいといふ希望から、古事記を研究しようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことは出来ない。古い言葉を調べるのに一番よいのは万葉集です。そこで先ず順序として万葉集の研究を始めたところが、何時の間にか年をとってしまって、古事記に手を延ばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しっかり努力なさったら、きっと此の研究を大成することが出来ませう。ただ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは学問の研究には特に必要ですから、先ず土台を作って、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
(『尋常小学国語読本巻十一』昭和四年翻刻発行・東京書籍株式会社より)
万葉仮名は、平安時代には早くも使われなくなってしまっていたため、江戸時代には読むことができなくなってしまっていました。そうした中で、国学者と言われる人々が、日本人の精神の根底には、中国から学んだ「漢心(からごころ)」ではなく、日本古来の「大和心(やまとごころ)」があるのだとして、万葉仮名で書かれた古典に目を向けるようになっていたのです。
こうして『万葉集』を研究した賀茂真淵は、本居宣長に『古事記』研究を託し、宣長は見事にそれをやり遂げたのです。
日本語と漢字といういわば「不幸な結婚」の産物である『古事記』の解読には大変な苦労が伴いました。漢字が持つ音をひとつずつ大和言葉の音に合わせていくとともに、一方では表意文字としての漢字として使われている部分をも特定しなければならなかったからです。
こうした漢字の二種類の使い方は、日本語において漢字を「音読み」と「訓読み」という二通りで使い分けることにつながっています。
第3章 西洋と日本人
●日本の思想はどこから来たか?
P193〜
長い間、中国に学び、近代になってからは西洋に学んだ日本は、文化ではなかなか外国に追いつけない、とりわけ哲学や思想の面では外国に学ぶしかない、と思い込んできました。
しかし、日本のものなど何もないと言われていた中でも、「そんなはずはない、日本の思想といえるものが何かあるはずだ」と考えた人がいました。
それが、第一章でも触れた賀茂真淵と本居宣長です。
…「松坂の一夜」で賀茂真淵と本居宣長が出合い、…その後、二人は一度も会うことなく、手紙のやり取りだけで研究は進められ、長い年月を費やして本居宣長がついに『古事記伝』を完成させるのです。
これは、実は日本にとって非常に大きな意味を持つことでした。
なぜなら、本居宣長が研究したおかげで『古事記』が読めるようになり、『古事記伝』が出版され、それがのちに水戸学につながり、日本の権威の大本はやはり天皇にあるということが確認される基礎資料となっていったからです。
こうして、『古事記』は日本における『聖書』的な輝きをもつようになり、やがて大政奉還を経て明治維新が起こるわけです。
…本居宣長は別に天皇の権威を高めるために「古事記』の研究をしたわけではありません。日本人の心「大和心(やまとごころ)」と中国人の心「漢心(からごころ)」は違うはずだ、では、大和心はどこにあるのか、ということで『古事記』に行き着いたのです。
ですから、本居宣長は『源氏物語』についても研究して 『源氏物語玉の小櫛』という注釈書を書いています。…新たに大和心に注目して『源氏物語』を再評価したのです。
…こうして本居宣長は、『源氏物語』を通して「もののあはれ」というものを見いだします。それは彼の師である賀茂真淵が、『万葉集』の研究を通して発見した日本人の精神の強さ「ますらおぶり」に次ぐ大和心の発見でした。
…これは非常に大きな学問的功績です。なぜなら彼が行なった日本人の心の再発見は、日本の「価値観の転換」につながっていくからです。そして、この価値観の転換があったからこそ、国学が隆盛となり日本は明治維新を起こすことができたのです。