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喜心・老心・大心


(cf.わが人生をどう料理するか「典座教訓」に参ずる 下/青山俊董/ 春秋社 )


 凡(およ)そ諸(もろもろ)の知事・頭首(ちょうしゅ)及び当職作事作務(さじさむ)の時節、
喜心、老心、大心を保持すべき者なり。

謂(いわ)ゆる喜心とは、喜悦の心なり。想うべし、我れ若し天上に生ぜば、楽に著(じゃく)して
間(ひま)なく、発心すべからず、修行未だ便ならざらん。
何(いか)に況んや三宝供養の食を作るべけんや。・・・



(道元禅師の『典座教訓』を読む/秋月龍a/大法輪閣 P174より)

 およそ、もろもろの知事・頭首およびこの典座の職を務める禅院の役位の者は、その職責とする仕事をするとき、「喜心・老心・大心」という心を保ち持つべきである。

 「喜心」

 いわゆる「喜心」とは、喜悦(よろこび)の心である。想ってもみよ、自分がもし天上界に生まれていたならば、そこは楽しみの世界だから、常に楽しみに心を執(とら)えられて菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すこともないに違いない。それでは修行に都合が悪いであろう。まして、仏・法・僧の三宝を供養する食事を作ることなどあろうはずもない。

 すべての存在のなかで、最も尊いのは三宝である。尊い帝釈天も、三宝の尊さには喩(たと)えることができないし、転輪聖王という理想の天子でも、三宝の尊さには比べることができない。『禅苑清規』にも、「この世の中で、最も尊く、世俗の外に超絶して心ゆたかに静かで清らかで、人間のいとなみのないのは、僧侶たちをもって最上とする」とある。

 今、自分は幸せにも人間として生まれて、この尊い三宝の身に受け用いられる食事を作ることは、なんとありがたい大因縁ではないか。これこそ、とりわけ悦喜(よろこぶ)べきことである。

 又(ま)た想うべし、我(わ)れ若し地獄、餓鬼、畜生、修羅等の趣(しゅ)に生まれ、又た自餘の八難處に生まれれば、僧力(そうりき)の覆身(ふくしん)を求むることありと雖(いえど)も手ずから自ら供養三寶(さんぼう)の浄食(じょうじき)を作るべからず。其(そ)の苦器に依って苦を受け、身心を縛(ばく)せられん。今生(こんじょう)既に之(こ)れを作る。悦ぶべきの生(しょう)なり、悦ぶべきの身なり。…

 また、想いみよ。もし自分が地獄・餓鬼・畜生・修羅などの、悪趣といわれる世界に生まれたり、またそのほかの八難処といわれる、仏道修行をすることのできない世界などに生まれたならば、僧であるが故にもつ威神力で自ら助けられようと思っても、親しく手をくだして三宝を供養する清らかな食事を作ることなど、とてもできないだろう。それは、それぞれ苦しみを受ける器によって苦しみを受け、身心を縛られているからである。今、幸いに自分は人間界に生まれきて、三宝を供養する食事を作っているということは、悦ぶべき人生である。悦ぶべきわが身である。永遠に尽きない良い因縁である。朽ちることのあり得ない功徳である、と言わねばならない。…

「老心」

謂(いわ)ゆる老心とは、父母の心なり。譬えば父母の一子を想うがごとく、三寶を存念(ぞんねん)すること、一子を念(おも)うが如くせよ。…然あれば乃ち水を看、穀を看るに、皆な子を養うの慈懇(じこん)を存すべき者歟(ものか)。…


いわゆる「老親」とは、父母の心である。たとえば、父母が一人子を念(おも)うように、三宝を心に念ずること一人子を念ずるようにせよ。…(その心を発(おこ)した人が、はじめて親心を知り、その心に繰り返し習う人がはじめて親心を覚るものである。)…だから、典座たるものは、水を見、米を見る上で、みな親が子を養う時のような、ねんごろな慈しみの心を持つべきものではなかろうか。…

(※親が、子を見るような目を食材に向け、接すべきであるとする。おいしくなあれ!)

「大心}

謂(いわ)ゆる大心(だいしん)とは、其の心を大山(だいさん)にし、其の心を大海にし、偏することなく黨(とう)すること無きの心なり。…


「大心」とは、文字どおり、“大きな心”の意である。大山にして大海にして偏(かたよ)らない心。
どっしりして動かない。清濁併せ呑む寛大さ。順逆の二境に処して動かない心。
無感動ということではなく、差別のなかに平等を見る。すべてを受け入れていく。
差別の真っ只中にこそ真の平等がある、と説く。差別を見て差別にとらわれない。心の自由さに生きる。